大分地方裁判所 昭和63年(行ウ)3号 判決 1991年3月19日
原告
野中トシ子
右訴訟代理人弁護士
河野善一郎
同
安東正美
同
加来義正
同
吉田孝美
同
徳田靖之
同
岡村正淳
同
濱田英敏
同
柴田圭一
同
牧正幸
同
西田收
同
古田邦夫
同
安部和視
同
工藤隆
同
指原幸一
同
神本博志
同
西山巌
同
一木俊廣
同
佐川京子
同
麻生昭一
同
山崎章三
同
平山秀生
同
鈴木宗厳
同
河野聡
同
瀬戸久夫
被告
佐伯労働基準監督署長
笠原光義
右指定代理人
福田孝昭
外一〇名
主文
一 被告が原告に対し昭和五九年三月二三日付でした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文と同旨。
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 災害補償事由の発生
(一) 亡野中政男の粉じん作業歴
亡野中政男(以下、「亡政男」という。)は、昭和二四年三月から昭和四七年五月までの間、次のとおり粉じん作業に従事した。
(1) 昭和二四年三月から昭和二七年四月まで津久見市小野田セメント内の川岸工業株式会社の事業場において修理アーク溶接に従事した。
(2) 昭和二七年四月から昭和三〇年一〇月まで津久見市小野田セメント内の中塚工業株式会社の事業場において場内修理アーク溶接に従事した。
(3) 昭和三一年四月から昭和三三年六月まで津久見市小野田セメント内の戸畑製鉄株式会社の事業場において場内修理アーク溶接に従事した。
(4) 昭和三三年六月から昭和三四年一〇月まで津久見市小野田セメント内の長門機械株式会社の事業場において工場内の集じん機補修アーク溶接に従事した。
(5) 昭和三四年一〇月から昭和三五年六月まで大分鉱業株式会社の事業場において原石山坑内設備アーク溶接に従事した。
(6) 昭和三六年一一月から昭和三八年一一月まで別府鉄工株式会社の事業場においてアーク溶接に従事した。
(7) 昭和四三年二月から昭和四五年四月まで徳脇株式会社の事業場において原石山坑内設備アーク溶接に従事した。
(8) 昭和四五年四月から昭和四六年九月まで名古屋市内の生コンクリート会社で鉄骨の溶接作業に従事した。
(9) 昭和四六年九月から昭和四七年五月まで津久見市小野田セメント内の星和工業株式会社の事業場において工場内集じん機修理アーク溶接に従事した。
(二) 亡政男のじん肺への罹患とその病態
亡政男は、昭和四八年一一月ころ、大分県佐伯市所在の医療法人長門莫記念会上尾病院(昭和五五年八月一日、長門記念病院と名称変更、以下、「長門記念病院」という。)で肺結核と診断され、入退院を繰り返しながら同病院で長門宏医師の治療を受け続け、じん肺健康診断を受けていたところ、昭和五五年六月二日付で大分労働基準局長からじん肺による健康管理区分「じん肺管理区分管理二、エックス線写真の像PR1、肺機能の障害F(+)、合併症肺結核、要療養」との決定を受けた。
その後、亡政男は、昭和五六年四月二三日に大分地方じん肺診査医滝隆医師により「PR2、F(+)、管理三イ、続発性気管支炎、要療養」との診断を受け、昭和五七年一月一二日には主治医の長門宏医師により「PR2/3、F++/(+)、管理四」との診断を受けた。
(三) 亡政男の死亡
亡政男は、昭和五七年一月一六日病状悪化により、長門記念病院に入院したが、同年五月二六日大分医科大学医学部附属病院に転院し、右下肺野に肺がんが発見され、更に肋骨に直接浸潤像が認められたため、放射線療養の目的で約三か月間大分県立病院に転院し、総量五〇〇〇Radの放射線照射を受けた。
その後亡政男は、同年九月一七日再度大分医科大学医学部附属病院に入院し、追加療法を受けていたが、同年一一月に入り、肺炎・肺化膿症を併発し、同月一九日肺がんにより死亡した。
2 原処分の存在
(一) 原告は亡政男の妻であり、同人の死亡当時その収入により生計を維持していた。
(二) 原告は、亡政男の死亡が業務上の事由によるものであるとして、昭和五七年一一月二七日、被告に対し労働者災害補償保険法(以下、「労災保険法」という。)に基づいて遺族補償給付及び葬祭料の給付を請求をしたところ、被告は原告に対し昭和五九年三月二三日付で亡政男の死亡は業務上のものではないとして、これらを支給しない旨の処分(以下、「本件不支給処分」という。)をした。
3 本件不支給処分に対する不服申立
(一) 原告は、本件不支給処分を不服として、大分労働者災害補償保険審査官に審査請求をしたが、同審査官は昭和六〇年一二月一〇日これを棄却する旨の裁決をした。
(二) 原告は、右決定を不服として労働保険審査会に対し再審査請求をしたが、同審査会は昭和六三年七月二八日右再審査請求を棄却する旨の裁決をし、同年八月八日原告に対しその通知をした。
4 本件不支給処分の違法性
亡政男の罹患していた肺がんは、以下に述べるとおり業務上の疾病であるから、亡政男は業務上死亡したものであるにもかかわらず、これを否定して同人の死亡に基づく遺族補償給付及び葬祭料をいずれも支給しない旨決定した本件不支給処分は違法である。
(一) じん肺と肺がんとの一般的因果関係の存在
医学上、じん肺に原発性肺がんが合併する比率が極めて高く、両者の間に強い相関関係が認められることは今日では動かすことのできない事実であり、このことは、労働省の設置した「じん肺と肺がんとの関連に関する専門家会議」(以下、「専門家会議」という。)の検討結果報告書によっても明白である。
したがって、じん肺とこれに合併する肺がんとの間に相当因果関係が認められるべきである。そして、じん肺は労働基準法施行規則(以下、「労基規則」という。)三五条別表第一の二第五号により、業務上の疾病とされているのであるから、じん肺と肺がんの因果関係が認められれば肺がんの業務起因性が肯定されることになる。したがって、亡政男の肺がんによる死亡についても業務起因性が認められる。
(二) 亡政男のじん肺と肺がんの個別的因果関係の存在
(1) 瘢痕がんとは、がん発生に先立って形成された瘢痕を場として発生・増殖したがんをいい、肺領域における瘢痕がんは、以前は、肺末梢の腺がんと結核性空洞壁などの大きな瘢痕から発生するがん腫(以下、「広義の瘢痕がん」という。)とに大別されたが、現在では後者だけを瘢痕がんといっている。
(2) 瘢痕が肺内に存在した場合、その周囲に治癒機転として瘢痕を覆うような上皮の増殖が起こるが、その過程で異型上皮の増殖が起こる場合があり、その異型上皮は前がん病変としてがん発生の場となることが病理形態学的に承認されているので、広義の瘢痕がんにおいては、瘢痕を基盤としてがんが発生したものと確認されれば、瘢痕とがんとの間に病理学的に因果関係があると認められる。
(3) 亡政男の肺がんは、じん肺に合併した肺結核によって形成された結核性空洞瘢痕から発生した広義の瘢痕がんである。
(4) したがって、亡政男の結核性空洞瘢痕と肺がんとの間には病理学的に因果関係が認められ、亡政男がじん肺合併肺結核に罹患しなければ、肺がんに罹患しなかったことは明らかであるから、亡政男のじん肺合併肺結核と肺がんとの間には相当因果関係が認められる。そして、じん肺とこれに合併する肺結核との間には一般的に相当因果関係があるものと認められている(労基規則三五条別表第一の二第五号参照)のであるから、結局、亡政男の肺がんは業務上の疾病であるじん肺に起因したものといえ、したがって同人の肺がんによる死亡についても業務起因性が認められる。
5 よって、被告の本件不支給処分は違法であって取り消されるべきであるから、原告は被告に対し本件不支給処分の取消を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の(一)の事実のうち、亡政男が昭和二四年三月から昭和四七年五月までの間に(1)ないし(7)(但し、(4)の事業場は戸畑製鉄株式会社である。)及び(9)の粉じん作業に従事したことは認め、その余は否認する。
2 同1の(二)、(三)の事実は、死因の点を否認し、その余は認める。
3 同2の事実のうち、(一)の原告が亡政男の死亡当時同人の妻であったこと及び(二)の事実は認める。
4 同3の(一)、(二)の事実は認める。
5 同4の主張は争う。
三 被告の主張(肺がんの業務起因性について)
1 業務上の疾病としての肺がん
じん肺症及びその合併症(じん肺法施行規則一条各号に掲げる疾病)については業務上の疾病とされている(労基規則三五条別表第一の二第五号参照)が、じん肺患者に原発した肺がんは同別表第一の二第五号に含まれないため直ちにこれを業務上の疾病と認めることはできず、同別表第一の二第九号の「その他業務に起因することが明らかな疾病」に当たるものについてのみ、業務上の疾病と認められる。
2 じん肺と肺がんの一般的な因果関係
(一) じん肺とこれに合併した肺がんとの関連を医学的見地から検討するため労働省が設置した専門家会議は、両者の因果性に関する数多くの国内外の文献を概括的に検討評価するとともに、最近における医学的知見を加えて両者の因果関係に関する意見を取りまとめ、昭和五三年一〇月一八日付で「じん肺と肺がんとの関連に関する専門家会議検討結果報告書」(以下、「専門家会議報告書」という。)を提出した。
(二) 専門家会議報告書は、じん肺と肺がんとの因果関係の存在を医学的に確認できるような材料が得られなかった事実を報告しており、その要旨は次のとおりである。
(1) 粉じんの発がん性
無機粉じんの中には、クロム、ニッケルその他発がん性が疑われているものがあるが、けい酸又はけい酸塩の粉じんの発がん性については、現時点においてこれを積極的に肯定するような見解は得られなかった。
(2) 病理学的検討
ア じん肺と肺がんとの間の病因論的関連性を解明するための有力な手段である実験病理学的手法によっては、この課題に即応しうる実験モデルの作成が今日なお極めて困難であり、したがって、これまでの実験成果から得られる情報は乏しく、かつ、限られたものでしかない。
イ 病理学的検討においては、じん肺に合併した肺がんの組織型は、外因性肺がんの組織型と同様、扁平上皮がんが多い傾向にあるが、一般の肺がんに比較して統計学的に有意差はなく、現在のところじん肺合併肺がんの組織像の特異性を認めることはできないこと、原発部位は石綿肺における肺がんと同様に下葉に多く、一般の肺がんが上葉に多いことと比較して対照的であるとされていることが認められるが、外因性肺がんには喫煙その他非職業性の原因が含まれており、これらにより直ちに職業性のがんであるか否かを判定することは困難である。
ウ 肺がん合併例をじん肺の進展に応じて観察すると、じん肺病変の程度が高度なものよりむしろ中等度又は軽度なものに肺がん合併が多いとの報告があるが、直ちに評価することができない。
エ じん肺性変化が肺がんの発生母地となるとの報告もあるが、現状では、これを断定するための根拠に乏しい。
(3) じん肺と肺がんとの合併頻度
けい肺を主体とするじん肺患者の剖検例を検討すると、おおむね一〇パーセントないし一六パーセントの高い肺がん合併率を示しており、注目すべきであるが、この傾向は患者だけでなく、粉じん暴露作業者に普遍的にみられるものであるか否かは明らかでなく、今後の疫学的研究・実験的研究を含めた広範な研究成果に基づいて分析がなされることが必要である。なお、疫学情報についてはその調査の実施に困難な点があり、限られた報告しかなく、また、それらの報告にもその評価には支障がある。
(4) まとめ
じん肺と肺がんとの因果関係について、現時点においては以上のとおり評価・判断されるのであって、今日得られている病理学的及び疫学的調査研究報告の多くをもってしても、なおかつ病因論的には今後の解明に待たねばならない多くの医学的課題が残されている。
(三) したがって、じん肺と肺がんとの関連についての症例報告や合併頻度などに関する報告が増えているとはいうものの、専門家会議報告書によれば、医学上両者の間に関連があるとする結論は得られていないのであるから、統計的にじん肺患者の肺がん合併率が一般の場合に比して多いとの研究報告がいくつかあるからといって、それだけで直ちにじん肺と肺がんとの一般的な因果関係が認められることにはならない。
3 じん肺合併肺がんの補償行政上の取扱い
(一) 労働省労働基準局長は、専門家会議報告書に基づき、じん肺に合併する肺がんの業務上の疾病の取扱いに関して、昭和五三年一一月二日基発六〇八号労働省労働基準局長通達を発した。
右通達により、じん肺に合併する肺がんを労基規則三五条別表第一の二第九号に該当する業務上の疾病として取り扱うのは、じん肺法によるじん肺管理区分が管理四と決定された者及び管理四相当と認められる者について、これに合併した原発性の肺がんの場合に限るものとされた。
(二) 前記通達の趣旨は次のようなものである。すなわち、じん肺とこれに合併する肺がんとの間の因果関係は、医学的には必ずしも明確ではないが、わが国ではじん肺症に肺がんの合併する頻度が一般人口における場合より高いこと、進展したじん肺症の病態のもとでは肺がんの早期診断が困難となること、治療の適応範囲が狭められること及び予後に悪影響を及ぼすこと等の医学的見解が専門家会議報告書において示されたことから、じん肺管理区分が管理四と決定された者又は管理四相当と認められる者で、現に療養中の者に発生した原発性の肺がんを、業務上の疾病として取り扱うこととしたものであり、特例的な行政上の措置を講じたものということができる。
4 亡政男のじん肺と肺がんの個別的因果関係について
(一) 亡政男の肺がんは、けい肺による組織変化から発生した瘢痕がん、すなわち厳密な意味でのけい肺性瘢痕がんには該当しない。
(二) 亡政男の肺がんは、陳旧性肺結核の空洞から発生したことは認められるものの、原告の個別的因果関係の主張は単なる条件関係を説明しているものに過ぎず、そのことから直ちに亡政男のじん肺症と肺がんとの間の相当因果関係の存在に結びつくものではない。すなわち、瘢痕がすべてがん腫になるものではなく、また、瘢痕があるからがん腫になるとは限らない。したがって、肺がんの発生部位がじん肺合併肺結核の空洞であるからといって、発がん物質等の存在ないし作用等を明らかにしないまま、直ちに因果関係を認めることができないことは明らかである。
(三) 亡政男の肺がんは、じん肺を起因して好発する扁平上皮がんではなく、右肺の腺がんである。
5 亡政男の喫煙と肺がんとの関係
(一) 喫煙と肺がんとの因果関係は、多くの疫学的研究及び実験的研究において確立されている。
(二) 亡政男は、一日二〇本程度の煙草を約三〇年間喫煙し続けていた重喫煙者であり、紙巻煙草の重喫煙者は、じん肺を惹起させる粉じんの毒作用以上に発がん性を現す可能性が指摘されているから、その意味で、喫煙による相対危険度について非喫煙者ないし軽喫煙者と大きな差がある。
(三) したがって、亡政男が重喫煙者であったことからみてじん肺より喫煙の方が肺がんの重要因子となっている疑いが濃厚である。
6 以上のとおり、じん肺と肺がんとの関連については、医学上いまだ定説は見られず、両者の間の一般的な因果関係は認められない。また、亡政男の肺がんは厳密な意味でのじん肺性瘢痕がんには当たらず、たまたま陳旧性肺結核の空洞に肺がんが生じたことをもって、それにいかなる発がん性物質が作用したかを明らかにしない以上、直ちに個別的な因果関係を肯定することもできない。外因性の肺がんには、職業性のがん原性因子暴露に起因するもののほかに、喫煙のように非職業性の原因によるものも含まれており、相当の重喫煙者であった亡政男の場合、喫煙が原因になっていることも十分に考えられる。
したがって、亡政男のじん肺と肺がんとの相当因果関係が立証されているとはいえず、また、亡政男のじん肺の程度は、大分地方じん肺診査医により管理3イと判定されているのであるから、同人の症例に前記通達を適用しても、同人の肺がんを労基規則三五条別表第一の二第九号に規定する業務上の疾病として取り扱うことはできないといわざるをえない。
7 よって、亡政男の死亡が業務に起因するとは認められないとして原告に対し遺族補償給付及び葬祭料を支給しないとした被告の本件不支給処分は適法である。
三 被告の主張に対する原告の反論
1 じん肺と肺がんとの一般的な因果関係について
専門家会議報告書は、わが国のじん肺と肺がん合併の実態について、じん肺剖検例及び療養者ともに肺がん合併の頻度が高いことから、両者の間に何らかの関連性のあることが強く示唆されるとし、また、専門家会議報告書以外の医学的な研究報告をみても、じん肺と肺がんの合併については、剖検例を中心として高い合併率の存在を報告するものが多く、これらは調査対象が必ずしも一定の標本集団とは言いがたいことから、その評価には限界が存するものの、じん肺とこれに合併する肺がんとの間に関連性が存することを強く示唆する。
ところで、訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるのであって、法的因果関係を判断するにあたっては、病理学的因果関係の存在や厳密な意味における疫学的因果関係の存在が証明されることは必ずしも必要でない。
そこで、右の見地に立ってじん肺とこれに合併する肺がんとの間の因果関係をみると、医学的な研究報告において両者の間の関連性が強く示唆されており、それにもかかわらず専門家会議報告書は両者の因果性について病因論的には今後の解明にまたねばならぬ多くの医学的課題が残されているとして確定的な結論を出すに至らなかったが、それも、ことががん発生のメカニズムという現代の医学的知見をもってしても解決の容易でない課題に関わる事柄だからであり、また、実験病理学的、病理形態学的、さらには疫学的な諸研究について、それぞれ障害や制約があるため現在得られている情報が量的にも質的にも限られていることから、医学上の観点からは確定的な結論を出すには足りないとしたに過ぎないのであって、両者の医学的な因果関係を積極的に否定してはいないのであるから、両者の間の因果性を是認しうる高度の蓋然性があるというべきである。
したがって、じん肺と肺がんとの一般的な因果関係が認められる。
2 労働基準局長通達について
労働基準局長通達の趣旨は、じん肺患者に発生した原発性の肺がんについて、専門家会議報告書を踏まえて、両者の間に医学的には因果関係は確証されないが、法的見地からは因果関係を認め、業務上の疾病として取り扱うことにしたものと理解することができる。なぜなら、法的見地から因果関係が認められないのに業務上の疾病として取り扱うということはあり得ないからである。
このような視点に立てば、じん肺合併肺がんの業務起因性についてじん肺の管理区分が管理四または四相当と限定をつける合理性は全く存しない。専門家会議報告書においても、じん肺管理区分が管理四または四相当の場合に限局して行政的保護措置の必要性を報告しているのではない。
したがって、右通達は、じん肺管理区分が管理四または四相当以外のじん肺合併肺がんについて、何らの合理的理由なく業務上の疾病として取り扱うことをしなかったもので、被災者に無用な立証を強いるものといわなければならない。
3 亡政男の喫煙歴と肺がんとの因果関係について
(一) 喫煙と肺がんとの関係は次のとおりである。
(1) 喫煙本数と肺がん死亡率との間には量反応関係があるが、一日喫煙本数が四〇本以下では非喫煙者と対比した相対危険度が著しく低い。
(2) 喫煙開始年齢と肺がん死亡率との関係は、年齢が低いほど肺がんのリスクが高く、二〇歳未満での喫煙開始者に肺がんリスクが高い。また、前喫煙者については禁煙期間が長くなるにつれて肺がん死亡リスクが低下しており、五年以上の禁煙者の場合には、その相対危険度は1.62にまで低下している。
(3) 腺がんと喫煙との間には、他の組織型の肺がんに比して著しく関連性が低く、ブリンクマン指数八〇〇未満の腺がん発生の相対危険度は一、つまり非喫煙者と同じである。
(二) 亡政男の喫煙歴は、二一歳から四八歳までの二七年間に一日二〇本程度であり、そのブリンクマン指数は五四〇である。また、同人の肺がんの組織型は、腺がんと扁平上皮がんとが混在していた。
(三) したがって、亡政男の場合、喫煙開始年齢、喫煙本数、喫煙期間のいずれからみても、一般的に肺がん発生リスクは低かったというべきであるし、同人のブリンクマン指数は五四〇にすぎないから、非喫煙者と比して腺がんとの間には何らの相対危険度における差がないといえる。また、同人の肺がんは、その組織型においても喫煙との因果関係が著しく低い。
(四) 以上のとおり、亡政男の場合には、どのような意味においても喫煙が肺がんの発生に何らの影響も与えていなことは明らかである。
第三 証拠<省略>
理由
一亡政男の粉じん作業歴
請求原因1の(一)の事実のうち、亡政男が昭和二四年三月から昭和四七年五月までの間に(1)ないし(7)(但し、(4)について事業場を除く。)及び(9)の粉じん作業に従事したことは当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、請求原因1の(一)の(4)の亡政男が粉じん作業に従事したのは長門機械株式会社の事業場であったこと、亡政男は同(8)のとおり名古屋市内の生コンクリート会社において鉄骨の溶接作業に従事したこと、同(1)ないし(4)及び(9)の作業は、セメント原料等による多量の粉じんが発生・飛散している事業場におけるアーク溶接作業で、右作業自体も金属粉じんを発生させるものであり、同(5)及び(7)の作業はトンネル坑内におけるアーク溶接作業、同(6)の作業は鉄工所におけるアーク溶接作業であり、(1)ないし(7)及び(9)の作業はいずれも多量の粉じんに暴露されるじん肺法施行規則二条に規定する「粉じん作業」であると認めることができる。しかし、(8)の名古屋市内の生コンクリート会社における鉄骨の溶接作業は、具体的な作業内容は明らかにされておらず、作業場所が屋内であるのか屋外であるのかも明らかでないうえ、<証拠>によれば、亡政男のじん肺健康診断結果証明書の粉じん作業職歴欄には請求原因1の(一)の(1)ないし(7)及び(9)の粉じん作業歴が詳細に記載されているのに対し、(8)の記載がされていないことが認められるのであって、以上の点に照らせば、亡政男が名古屋市内で従事していた作業がじん肺法施行規則二条に規定する粉じん作業であると直ちに認めることはできない。
二亡政男の病歴、じん肺の病態及び程度
請求原因1の(二)の事実は当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、亡政男の罹患したじん肺の種類はけい肺であり、同人は両肺ともけい肺症に罹患していたこと、前示のとおり、亡政男の主治医である長門宏医師は亡政男のじん肺の程度は管理四と診断したのに対し、滝隆医師は長門宏医師による亡政男の肺機能検査の結果では亡政男に肺機能の著しい障害がある(F++)と認めることはできず、F(+)とみるのが相当であるから、亡政男のじん肺の程度はじん肺管理区分三イと診断し、福岡地方じん肺診査医である小野庸医師、産業医科大学産業生理科学研究所の馬場快彦医師も亡政男はじん肺管理区分三イと判断するのが相当である旨の意見書を提出したことが認められる。
三亡政男の死亡とその原因
亡政男の死因を除くその余の請求原因1の(三)の事実は当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、亡政男は、長門記念病院において治療を受けていたが、右肺野の空洞が大きくなってきたことから肺結核が悪化したものと診断され、昭和五七年一月一六日同病院に入院し、肺結核に対する治療を受けたが、症状の改善はみられず、結核菌検査の結果でも結核菌が証明されず、右空洞内に液貯留がみられたので空洞内感染によるものと診断され、抗生物質の大量使用が行われたが、症状が悪化したため大分医科大学付属病院に転院し、同病院で空洞内の液を検査しても結核菌は発見されず、生検の結果肺がんと診断されたこと、亡政男の病理解剖の結果によると、亡政男の右肺下葉S6に陳旧性の結核性空洞が存在し、その空洞壁の全周にわたってがん組織が存在し、空洞の一部には再生扁平上皮が存在したこと、がんの組織型は扁平上皮がんと腺がんとが混在する低分化型腺扁平上皮がんであり、がんは右肺動脈、両肺門リンパ節等に転移していたこと、右肺下葉の空洞から大量喀血があり、両側気管支及び肺胞内に大量の血液吸引がみられたこと、右肺には間質性肺炎または線維症の症状がみられ、右気管支粘膜の扁平上皮化生、著名な線維性肥厚を伴ったび慢性胸膜癒着(右胸膜)がみられるほか、両肺にけい素の沈着並びに小結節が多数みられたこと、亡政男は肺がんによる右肺空洞部からの大量喀血により引き起こされた気管支及び肺胞内の大量の血液吸引により死亡したこと、亡政男の肺がんは右肺下葉空洞瘢痕から発生した瘢痕がんとみるのが相当であること、以上の事実が認められる。
右事実によれば、亡政男はじん肺に合併した肺結核による病変である右肺下葉の空洞瘢痕から発生した原発性の肺がんにより死亡したと認められ、右認定に反する証拠はない。
四本件不支給処分等
請求原因2の(一)の事実のうち、原告が亡政男の妻であったこと、同2の(二)(本件不支給処分の存在)、同3の(一)、(二)(審査請求及び再審査請求の経由)の各事実はいずれも当事者間に争いがなく、同2の(一)の事実のうち、原告が亡政男の死亡当時その収入により生計を維持していたことは被告において明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。
五亡政男の肺がんの業務起因性について
そこで、亡政男の死亡が労災保険法一二条の八第二項、労働基準法七九条、八〇条の規定する「労働者が業務上死亡した場合」に該当するか否かについて検討するが、亡政男の死因である肺がんは、労働基準法七五条二項、労基規則三五条別表第一の二第五号において業務上の疾病と認められたじん肺法施行規則一条に掲げられた疾病ではないため、同別表第一の二第九号に規定する「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当するか否か、すなわち、業務と相当因果関係があるか否かについて検討する。
なお、本件において、亡政男は、前記のとおり粉じん作業に従事してじん肺に罹患し、じん肺に合併した肺結核による右肺空洞瘢痕から原発した肺がんにより死亡したが、じん肺及びこれに合併した肺結核については労働基準法七五条二項、じん肺法施行規則一条、労基規則三五条別表第一の二第五号により業務上の疾病として粉じん作業との間に一般的に業務起因性が肯定されているので、亡政男が罹患していたじん肺及び合併症である肺結核と肺がんとの間に相当因果関係の存在することが認められれば、結局肺がんの業務起因性も肯定されることとなる。
そこで、以下においてじん肺(合併肺結核)とこれに合併した肺がんとの相当因果関係の存否について検討する。
1 じん肺は肺がんとの関連に関する医学的研究について
<証拠>によれば、次の事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。
(一) じん肺(石綿肺を除く、以下同じ。)に原発性肺がんを合併する症例は、諸外国では一九二〇年代より、わが国では一九四〇年代後半より報告が見られるようになり、近年その数が次第に増大してきたのに伴い、じん肺とこれに合併した肺がんとの間に因果関係が存在するか否かが注目され、右の点に関連して、けい肺症の組織変化と肺がんとの関連性を示唆する佐野辰雄の論文、けい肺症患者の肺がん合併率が高度であってけい肺と肺がんとの密接な関連性を指摘する藤沢泰憲・菊池幸吉らの報告等がなされるに至った。
そこで、労働省は、じん肺と肺がんとの関連を検討させるため、珪肺労災病院の千代谷慶三を座長とし、じん肺の臨床研究者、じん肺の病理学専攻者、労働衛生専攻者、疫学専攻者といった医学専門家を構成員とする専門家会議を設置した。専門家会議は昭和五一年九月以降、じん肺と肺がんとの因果性に関する数多くの国内外のレポートを概括的に見直したうえ、最近の知見を加えて両者の因果関係に関する意見を取りまとめ、昭和五三年一〇月一八日付で専門家会議報告書(<証拠>)を労働省労働基準局長に提出してその検討結果を報告した。
専門家会議報告書はけい酸又はけい酸塩粉じんによって惹起されたじん肺(珪肺)を中心に、これと合併した肺がんとの関連性について検討を加えたものであり、専門家会議報告書において示された医学的見解の概要は以下のとおりである。
(1) 粉じんの発がん性について
無機粉じんの発がん性については、従来よりクロム、ニッケル、ベリリウム、石綿等による肺がん発生の実験的研究があり、その他発がん性が疑われる粉じんとしてはコバルト、酸化鉄等があげられている。
一方、けい酸粉じんの発がん性については、一部に長期粉じん暴露実験において悪性腫瘍発生の陽性成績が得られたとの報告があるが、諸家の報告の多くは否定的な見解を示しており、現時点においては、この種の粉じんの発がん性についてこれを積極的に肯定する見解は得られなかった。
(2) 実験病理学的成果について
吸入された粉じんは、その物理化学的特性によって気管支、細気管支、肺胞を含む気道系及びその周囲の間質組織、肺内リンパ組織、胸膜等に複雑な生体反応を惹起し、いわゆるじん肺性病変を発生させる。その生体反応の場は細気管支、肺胞系が中心である。この病変に急性及び慢性の感染症等による修飾も加わって、究極的には気道変化、肺の線維化、気腫化等の様々なパターンのじん肺性変化に至るものである。
じん肺に合併した肺がんは、このようなじん肺性変化の進展過程のいずれかの時点において発生するが、両者の間の病因論的関連性については、いまだ不明の点が多い。これらを解明する有力な手段として実験病理学的手法があるが、右課題に即応しうる実験モデルの作成は今日なお極めて困難であり、したがって、これまでの実験成果から得られる情報は乏しく、かつ、限られた範囲のものでしかない。
(3) じん肺と肺がんの合併症例の病理学的検討について
剖検された多くの症例が病変の進行した肺がんであるため、じん肺と肺がん発生の因果関係を病理形態学的観点から確かめることは難しい。しかし、比較的早期の肺がんとじん肺との組織学的関係の検討やじん肺に合併した肺がんと一般の肺がんの比較等を行えば、その因果関係の有無について何らかの示唆を得る可能性がある。
一般に外因性肺がんの組織型は扁平上皮がんが多いとされ、じん肺に合併した肺がんも扁平上皮がんが多い傾向にあるとされているが、一般の肺がんに比較して統計学的に有意差はない。原発部位は、下葉原発が上葉のほぼ二倍と多く、一般の肺がんについては上葉原発が多いか下葉とほぼ等しいことと比較して対照的であるとされ、下葉に好発すると報告されている石綿肺における肺がんとの類似が注目される。
しかし、外因性の肺がんには職業性のがん原性因子暴露に起因するもののほかに、喫煙のような非職業性の原因によるものが含まれるので、単にがんの組織型とか原発部位のみから直ちに職業性のがんであるか否かを判定することは困難である。
じん肺の程度と肺がん合併頻度の関連については、肺がん合併例をじん肺エックス線病型別にあるいは病理組織学的に観察して、じん肺病変の程度が高度なものよりもむしろ中等度または軽度のじん肺に肺がん合併が多いとする報告がある。しかし、じん肺における病変は極めて多彩であり、重症例は比較的若年で死亡すること等を考えると、じん肺性病変の程度と肺がん合併率との関係のみをもって直ちに両者の間の量―反応関係を否定し去ることはできない。
じん肺に合併した初期の微小がんの病理組織学的観察では、けい肺症性病変とがん病巣との間の密接な接触性と病理組織学的変化の連続性を認めた報告があり、厳密な瘢痕がんの病理学的診断基準に適合する例もあげられており、これらの病理形態学的な事実は、じん肺が肺がんの発生母地であることの直接的な証拠にならないが、その可能性を強く示唆するものと考えられる。
じん肺における気道上皮の病理学的変化について、岩見沢労災病院の剖検例ではほとんどのじん肺例(一二四例中一〇九例、八八パーセント)に程度の差、組織像の差はあれ、急性及び慢性気管支炎の病理組織像が確認された。粘膜上皮の変化は気管支炎と必ずしも並行しないが、じん肺における基底細胞増殖の頻度が高いことは気管支炎に基づくと考えられる。基底細胞増殖自体はがん発生と直接結びつくとはいえないが、じん肺における長期間持続する刺激とこれに基づく慢性炎症、上皮の増殖性変化は発がん母地となる可能性が大きいとの報告がある。
じん肺においては、慢性気管支炎、細気管支炎などを背景とした慢性肺間質性腺維症はしばしば認められ、これに細気管支、肺胞の著名な拡張を伴った蜂窩肺が生ずることが多い(じん肺一二六例中一六例、12.7パーセント)。注目すべきは、この病変には末梢気道上皮の腺様増殖が必発なことである。このようなじん肺性慢性炎症、肉芽組織あるいは瘢痕が気管支上皮、末梢気道上皮の病的増殖を起こすことによって生ずる通常の意味の瘢痕がん発生の可能性、次に、じん肺性瘢痕が同時に吸入された何らかのがん原物質を肺内に停滞、局在させる可能性をあげている報告があり、また、じん肺性瘢痕は肺間質、肺胞、末梢気管支上皮に剥離、修復機転を繰り返し起こさせたり、粉じんの停滞が気管支粘膜上皮を刺激し、慢性炎症性変化を起こし、さらには上皮の化生増殖を起こしてがん発生の母地となる可能性をあげる報告もある。
しかし、現状では以上の事実をもってしても、病理形態学的立場からじん肺性変化が肺がんの発生母地となり得ると断定するには証拠が乏しい。今後じん肺における上皮内がん症例の成績の蓄積がなされ、それらとじん肺病変との病理組織学的連続が証明されて初めてじん肺と肺がんとの因果関係の存在が結論されると考えられる。
(4) 剖検例から見たじん肺と肺がん合併の統計的検討について
一般に剖検統計では症例の選択による偏りが現れやすい欠点があるが、日本病理学会編集の日本剖検輯報は、わが国の大病院、大学病院のすべての剖検例を網羅し、わが国の剖検例のほとんど全例が収録されており、世界的にその量と正確度で最も信頼できる資料である。一方、岩見沢労災病院は、北海道地域のじん肺患者の約七〇パーセントが受診し、死亡したじん肺患者の74.4パーセント(昭和四七年から昭和五一年までの平均値)を取り扱い、じん肺のセンター病院としての機能をもち、かつ同病院で死亡したじん肺患者は、特殊事情がないかぎりほぼ全例が剖検され(一九五六年から一九七七年までの同病院の死亡者は三四八例であり、剖検数は三二八例(94.3パーセント)である)、医師側の選択の可能性は少なく、北海道地方のじん肺患者の動向をかなり正確に反映していると考えられるところから、日本剖検輯報(一九五八年から一九七四年)及び岩見沢労災病院(一九五六年から一九七六年)の各調査成績をもって、現時点において最も信頼するに足りるじん肺剖検統計の資料であると考え、これらの資料と厚生省死因別統計とを比較検討した。
それによれば、岩見沢労災病院剖検例では、じん肺の肺がん合併率は、昭和三九年になされた報告(武田)では二〇パーセント、次いで昭和四五年のそれ(菊池ら)では16.9パーセント、昭和五〇年になされた二件の報告ではそれぞれ16.2パーセント(藤沢)及び15.8パーセント(奥田ら)、さらに昭和五一年一二月現在では剖検総数三二七例中四九例(15.0パーセント)を示しており、剖検総数が増加するにつれて、若干減少の傾向を認めるが、それでも15.0パーセントという高率を保持している。
一方、昭和三三年から同四九年までの日本剖検輯報に登録されたじん肺剖検例は一一七二例であり、うち一七九例(男子一七五例、女子四例)、15.3パーセントに肺がんの合併を認めた。この比率は岩見沢労災病院剖検例とほとんど一致する。
一般に剖検例には医師側の選択が入り、特に悪性腫瘍に偏りが見られる傾向があるが、岩見沢労災病院のごとくほぼ全例が剖検される施設における成績と全日本じん肺剖検例の成績が一致することは決して偶然とは考えられない。実際、肺がん合併率が北海道のみならず、四国(44.4パーセント)を除く各地域とも一〇ないし二〇パーセント、平均15.3パーセントという高率を示し、また職種別でみてもほぼ一四ないし一六パーセント程度で肺がん合併の認められたことは、じん肺における肺がんの合併が単なるサンプリングの偏りによるものでなく、有意に頻度の高いことを示唆している。
なお、奥田らによる岩見沢労災病院の剖検例は、そのほとんどの例で肺がんはじん肺認定後に発生したものであるが、肺がんに罹患した患者が選択的に同病院を受診した疑いを払拭できない。そこで、昭和三一年から昭和五〇年までの間に同病院で剖検された五五例について初診から死亡までの経過を再検討し、入院後一年以内に肺がんが合併した一七例を入院時に肺がんがあったと仮定して除外し、残り三八例について肺がんの合併頻度を計算した。これは最も少ない肺がん合併数をとって、危険度をみようとしたものである。同病院の臨床診断と剖検診断の一致率は低く見積もって六〇パーセントであるから、右三八例のうち、二三例が臨床診断のみで肺がんと診断されたことになる(38×0.6=22.8)。
同じ期間の同病院のけい肺患者死亡数は三四三例であるので、臨床診断のみで発見された場合の肺がんの合併頻度は6.7パーセント(23÷343)となる。
対照として、全日本死亡例における肺がん合併例(臨床診断が主体)の全死亡中に占める割合を見ると、昭和四〇年及び同四五年の四〇歳以上の男子では2.3パーセントにすぎない。したがって、岩見沢労災病院におけるけい肺患者の全死亡中に占める肺がん合併率は、臨床診断のみで発見されたと見込まれる合併症例数のみで検討しても全日本死亡例における合併率の三倍近く高かったことになる。なお、実際の肺がん合併リスクはもう少し高いものと思われる。
じん肺剖検例の部位別悪性腫瘍頻度を見ると、男子のみの全悪性腫瘍に対する肺がんの割合は、全国じん肺剖検例(昭和三三年から昭和四九年)では46.1パーセント、岩見沢労災病院剖検例(昭和三一年から昭和四八年)では47.1パーセントで、厚生省人口動態統計(昭和四九年)の13.2パーセントより高く、全死亡に対する肺がんの割合も全国じん肺剖検例で15.7パーセント、岩見沢労災病院剖検例で15.8パーセントと厚生省人口動態統計の2.6パーセントの約六倍を示している。口腔・咽喉頭がんの全死亡に対する割合は、人口動態統計の0.2パーセントと比較すると、全国じん肺剖検例は1.3パーセント、岩見沢労災病院剖検例は0.8パーセントで、それぞれ6.5倍、四倍と高く、全国じん肺剖検例及び岩見沢労災病院剖検例における全悪性腫瘍及び全死亡に対する割合が人口動態統計のそれよりもいずれも上回っているのは、肺がん及び口腔・咽喉頭がんの二者のみである。一方、胃がんをはじめその他の悪性腫瘍では右割合がほぼ同率かあるいは低い。このことからけい酸を含む粉じんは上部呼吸器及び下部呼吸器に対して発がん性を促す方向に作用している可能性がある。
(5) 一般医療機関におけるじん肺合併肺がんについて
じん肺患者の医療を担当する全国一般病院施設における外来、入院患者の調査結果では、初診時に肺がんの症候のあったものが五六パーセントを占めていたが、全体として肺がんの合併頻度は高い傾向にあった。
それらの症例の肺がん発見時のじん肺エックス線病型は、軽度もしくは中等度進展例が過半数を占めていた。
右のとおり、じん肺患者のうち剖検が行われた集団のみならず、けい肺を主体とするじん肺で療養中の患者集団においても、肺がん合併率が高い傾向が窺われる。
(6) じん肺と肺がんとの合併に関する疫学的考察について
じん肺患者における肺がんの合併について、臨床病理学的ならびに臨床疫学的ないくつかの報告を中心に、他のがん原性物質が関与する職業がんと比較しつつ、疫学的立場から、関連の普遍性、時間的関係、関連の強さ、関連の特異性、他の生物学的所見との一致性の各項目に着目して検討を加えた結果は、以下のとおりである。
けい肺合併がんについては、わが国の臨床病理学的調査及び臨床疫学調査は、どのけい肺集団をとってみてもすべて肺がん合併率の高い蓋然性のあることを示唆しているが、その程度は調査で若干異なっており、外国における調査でも、けい肺に肺がんの合併する頻度は高低さまざまで一定していない。また、国内外ともほとんどの調査が一般人口を基礎としていないので、そのまま比較することは困難であり、その評価にも限界がある。
原因と結果の時間的関係については、けい肺合併肺がんはけい酸またはけい酸塩粉じんの暴露開始後概ね一〇年から四〇年経過後に発症しており、大部分が二〇年以上経過後であることは、既知の職業がんの場合に似ている。
けい肺の肺がん合併のリスクは、既知の職業がんにおけるリスクに匹敵するほど高いものは認められず、肺がん発生の明らかな量―反応関係も認められない。ただし、全国的に見てけい肺所見者ではエックス線写真像のPR1からPR2が大部分を占めていること、重症例はより若年で死亡することを考えると、量と反応の関係は全く存在しないとはいいきれない。
けい肺合併肺がん症例には特異な知見は得られていない。けい肺が大多数の肺がんに認められるという事実はない。
肺がんの組織型についてみると、扁平上皮がんが一般の肺がんに比して若干多く、腺がんが少ない傾向にあるが、他の職業がんの場合と同じという程顕著でない。がん発生の部位は、けい肺例では肺下葉に多い特徴を有し、石綿肺合併肺がんの場合に類似している。なお、一般の肺がんは上葉に多い。
現在けい酸又はけい酸塩粉じんに明らかながん原性があるとの報告はない。
以上を総括して考察すると、けい肺と肺がんとの間に何らかの関連性のあることは強く示唆されるが、一方既知の職業がんと同一のレベルで論ずることができないことも事実である。検討した資料が既知の職業性肺がんに比べて量的に少ないこと、質的にも関連性の強さの程度が明らかでないことが確定的な結論を引き出し得ない主因である。
(二) 千代谷慶三は、日本災害医学会会誌第二九巻第三号(昭和五六年三月一日発行)に、次のとおり報告している。
すなわち、昭和四六年から昭和五四年の間に珪肺労災病院において療養した患者集団の中から、療養経過中新たに原発性肺がんを合併し、死亡に至った症例について調査した結果、昭和五〇年以降におけるこの集団の原発性肺がん死亡のリスクはわが国の人口のそれに比べて高いが、近年に至って患者集団の肺がん死亡のリスクがにわかに高まってきたことは注目すべき現象であり、その理由は、患者集団が年々延命し、その平均死亡年齢が肺がん発生年齢に達し、じん肺患者が本来持っている高い肺がんリスクがようやく顕在化してきたことにある。死亡一二例のうち扁平上皮がんは七例、腺がん三例、その他二例であった。主に胸部エックス線写真所見がじん肺由来の陰影に覆われて肺がん陰影の識別を困難にしていることから、じん肺に合併した肺がんの早期の臨床診断は一般の肺がんに比較して困難をともなった、と報告している。
(三) 菊池浩吉及び奥田正治は、日本災害医学会会誌第二九巻第三号(昭和五六年三月一日発行)に掲載された、岩見沢労災病院の剖検例を調査対象としたじん肺と肺がんとの関連に関する「じん肺と合併について―病理の立場から―」と題する論文において、右の点に関して概要次のような見解を発表した。
すなわち、昭和三一年から同五四年までの岩見沢労災病院におけるけい肺剖検例四〇六例を臨床病理学的及び統計学的に検討し、昭和三三年から同四九年までの日本病理剖検輯報のじん肺剖検例一一七二例の統計的検討を加えた結果、けい肺症に肺がんの合併頻度が高いことはほぼ容認される事実と思われ、じん肺合併肺がんの組織型は、一般肺がんのそれに比べ扁平上皮がんが有意に多く、これは外因性の肺がんの多発を示唆した。また微小がんの観察では、その部位はいずれも肉眼的、組織学的にけい肺症の瘢痕に接して存在し、けい肺症との何らかの関連が示唆された。じん肺症一般の気道上皮の変化からは、細気管支粘膜上皮、肺胞上皮の増殖病変が示唆的であり、とくに吸入物質の沈着の場としての瘢痕の存在を考慮する必要があると考えられる。実験的にじん肺と肺がんとの関連を立証することはかなり困難であるが、粉じんと発がん物質を同時に肺内投与する実験は多く、いずれも粉じん投与群に発がんを促進する成績を得ている。なお、肺結核の肺がん発生における意義については否定的である。まとめとして、じん肺と肺がんとの関連について、剖検統計、病理学的観察から、両者の間に密接な因果関係を示唆する成績を得た、としている。
(四) 安田悳也、佐々木雄一、酒井一郎、田辺孝一、伊東廉、安曽武夫、奥田正治は、日本災害医学会会誌第二九巻第八号(昭和五六年八月一日発行)に掲載された「じん肺症に合併した肺がん症例の臨床的検討」と題する論文において、昭和五〇年七月から昭和五五年六月末までの期間に岩見沢労災病院において診療を受けたじん肺患者の中から、肺がんの合併を診断された三七例についての臨床的検討の結果を次のとおり報告した。
すなわち、右期間に診療を受けた全じん肺症患者を母集団として計算すると、じん肺症患者の肺がん発病率は同年代の日本人の6.8倍であり、じん肺症合併肺がんは、一般の男性肺がんに比し、扁平上皮がんが多く、腺がんが少ない傾向が見られた。喫煙量との関係では、肺がん合併患者群には一般のじん肺症患者群より重喫煙者が有意に多いという結果であり、じん肺症に合併する肺がんの発症にも喫煙が影響していると考えられる、と報告している。
(五) 佐野辰雄は、労働の科学第三六巻一一号(昭和五六年一一月一日発行)において「炎症とがん―刺激の多様性と細胞反応の単純性」と題して、「じん肺に合併する肺がんの増加は、粉じん巣の線維化の進行には直接の関係はなく、気管支炎と細気管炎の発生と進行に密接に関係し、炎症による変性と再生の繰り返しの結果であろうとし、また、多様な刺激もそれが細胞に働いたときは、細胞が壊死するか、増殖するか、自律的な増殖(がん化)を起こすかの三つの方向にしか向かわず、がん化は特殊な物質に対して特殊に起こる生体反応ではなく、刺激に対する細胞反応の一連の現象である。人体でのがん原物質による発がんには、その物質の量、作用期間以外に、組織細胞の新陳代謝の旺盛な組織ほど発がんは起こりやすく、この観点から各臓器における慢性炎症の存在は重要である。」と述べている。
更に同人は、じん肺に肺がんが合併するメカニズムに関して、医学的に次のとおり説明できるとしている。
すなわち、がんはがん原物質があるというだけでいきなり起こるわけではなく、がん原物質が働く人間の体のほうにある条件が整わないと現実の発がんは起こらず、がんの発生は人間の体にがんができ易くなる状態ができているかどうかが非常に大きな関係がある。人間の細胞は、異常な物質代謝を行うとその結果として細胞の核内にある遺伝子が変異を起こして自律的に増殖し、増殖するだけの部位を作るが、それががんである。
じん肺は、結節ができて線維化が起こるだけでなく、必ず粉じんのために気管支炎を起こすが、その気管支炎の継続が長く続いたものほど次第にがんができやすい状態になり、最終的に発がんする。その場合に同時に入ったがん原物質の役割は、そのようながん化を促進するということであり、がん原物質なくても発がんは起こりうる。
じん肺の程度が軽度のものに肺がんが多く合併する理由としては、レントゲン写真は結節が大きく、線維化が強いほど陰が多くなるから、レントゲン写真上は高度にみえても、実際解剖してみると、結節と結節の間にはまだ使える肺がたくさんあり、また、結節が大きく固まってしまうから、気管支の変化が実際には少ないのに対し、気管支炎変化を主にするじん肺はレントゲン写真上では陰影が比較的少なく、進行しているように見えないが、実際に内容的には気管支の変化は進んでいる、つまりレントゲン写真の陰影の量が多いからといって肺の中の変化が強いとは限らないことが考えられる、としている。
(六) 海老原勇は、労働の科学第三六巻一一号(昭和五六年一一月一日発行)に掲載された「今日の職業性肺がん―職業性肺がんをめぐる現状と問題点」と題する論文において、発がん物質への暴露以前あるいは同時に炎症を起こさせておくと発がんしやすく、このことは発がんにおける生体側の条件として慢性炎症が重要な役割を果たしていることを示している、気道の慢性炎症である慢性気管支炎では、気管支腺の肥大と機能亢進、気管支筋の肥大から線毛細胞の変化、脱落、修復などを繰り返し、気管支上皮の基底細胞やリザーブ細胞の増殖による層形成などが起こり、線毛上皮が扁平上皮に化生してゆく一方、異型増殖が起こる。細気管支の慢性炎症では内腔が容易に閉塞しやすく、小無気肺巣ができたり、換気不全の部分ができたりして、細胞は異常な環境化で異常な代謝を営むことになる。こうした状態は発がんへの好適な状態であり、このような状況下に発がん物質が作用することにより、がんへの「ひきがね」が引かれ、現実のがん発生へと結びつくと考えられる、と報告している。
また、同人は、同誌に掲載された「じん肺と肺がん―じん肺における発がんの母地を中心に」と題する論文において、比較的最近までの報告にはじん肺(特にけい肺)が肺がんのリスク・ファクターであることに消極的なものが多かったが、じん肺患者の延命がはかられ、肺がんの好発年齢以上に生存する者が多くなってきた最近の研究報告では一致してけい肺に肺がんの過剰死亡を認めているとし、そこで、けい肺と肺がんの関係をじん肺における組織変化と発がん母地という面から労働科学研究所に保存されているじん肺剖検例の病理学的特徴の有無を検討して、じん肺にみられる病理組織学的変化そのものが発がんの好適な母地となっていることは、病理組織学的検討からも明らかであると考えられた、と報告している。
さらに、同人は、労働の科学第三九巻一二号(昭和五九年一二月一日発行)に掲載された「じん肺をめぐる社会医学的諸問題」において、粉じん作業者の肺がんのリスクは1.5ないし4.0程度であり、肺がんの原発部位は、じん肺所見の軽度のものでは肺門型が多く、中程度から高度のじん肺では塊状巣に接した部位や塊状巣が形成されようとしている部位からの肺野型が多い。粉じん吸入により細胞性免疫が低下することが知られており、粉じん作業者は職業的にがん細胞に対する免疫機能を低下させる物質を吸入していることになる、と報告している。
また、同人は、日胸疾会誌二七巻五号(平成元年)に掲載された「じん肺と肺がんに関する病理組織学的検討」と題する論文において、じん肺と肺がんの関連性につき四八例のじん肺合併肺がんを対象に病理学的に検討を加えた結果を次のとおり報告した。
すなわち、肺がんの組織型は扁平上皮がんが最も多く(二六例)、次いで小細胞がん(一一例)、腺がん(七例)であった。扁平上皮がん、小細胞がんは中心型、末梢型共にみられたが、腺がんは末梢型に限られていた。原発部位は軽度のじん肺では右肺に多いが、中等度、高度のじん肺では左右差は見られない。また、軽度のじん肺は上葉原発が多いのに対し、中等度、高度のじん肺では上葉、下葉に差は見られなかった。軽度のじん肺では中心型肺がんが多いのに対し、中等度と高度のじん肺では末梢型肺がんが目立った。末梢型肺がん原発部位は塊状巣の好発部位と一致しており、末梢型肺がん一八例中塊状巣の前端部に発生した瘢痕がん一例、塊状巣形成過程の部位に生じた瘢痕がん二例を含め七例は確実に塊状巣との関連性が認められた。なお、昭和三五年から昭和六一年までの間の自験のじん肺連続剖検例中の肺がん合併率は一四〇例中二五例、17.9パーセントで、この間の自験のじん肺剖検例率(一四〇/一五二、92.1パーセント)を考慮しても、肺がん合併率は高率であった、と報告している。
(七) 昭和五八年九月西ドイツのルール大学で開催された第六回国際じん肺会議においては、アメリカからの炭鉱夫に対する疫学的調査から肺がんのリスクが認められないとの二件の報告があった以外はじん肺患者に肺がんのリスクが高いとの報告(デンマークからは鋳物工について肺がんと泌尿器がんが有意に高率であったとの報告、フィンランド、スウェーデン及び日本(千代谷慶三)からはけい肺症の患者に肺がんリスクが高いとの報告、海老原勇からは低濃度けい酸じんの暴露を受けたじん肺患者肺がんのリスクが高いとの疫学的調査の報告)がなされ、じん肺患者に肺がんの発生が高率であることを前提として西ドイツのヴォイトビッツの掲げた三つの仮説(①けい酸じんが直接に肺がんを発生させる、②けい酸じん暴露によって生じた肺内の組織変化が肺がんの発生母地となる、③粉じんと同時に吸入した発がん性芳香族炭化水素が発がんの要因となる。)について討議が行われ、①については疫学的結果からこれを否定する考えが大多数であり、③についてはさしたる論議はなされなかったが、②については粉じん吸入と慢性気管支炎あるいは粉じん巣が肺がんの発生母地となるだろうとの考え方が強く打ち出され、促進要因として喫煙が指摘されたが、このような考え方に対して否定的な意見は提出されなかった。
(八) 藤沢泰憲は、けい肺症にみられる基底細胞増殖、腺様増殖などの上皮の変化が、肺がん発生のメカニズムの中で果たす役割について上皮の増殖性変化は細胞が分裂する頻度が高いことを意味し、細胞が分裂増殖する頻度が高い組織の状態は、一般的になんらかの発がん性物質が作用する場合に非常に効果的にがんを発生させることが実験において明らかになっている。つまり、けい肺症においてはがんの発生母地となるような上皮の増殖性変化が強いられており、そういう細胞集団が常に存在しているということは、一般の人よりも肺がんにかかる危険率を高くするだろうと理論的に考えられるとし、じん肺に肺がんが合併する頻度が高い理由を、けい肺症という形態的変化ががんのプロモーターと同じように働くとする、発生母地説で説明できるとしている。
(九) 田代隆良らは、JAPANESE JOURNAL OF MEDICINE(昭和六〇年二月号)に掲載された「けい肺に合併する肺がん・・臨床的、組織病理学的研究」と題する論文において、昭和五〇年四月から昭和五八年三月までの八年間に、けい肺に合併した肺がん一六例の患者(いずれも長門記念病院の患者)を対象として臨床病理学的分析を行ったところ、類表皮がんが七例(43.8パーセント)、大細胞がんが四例、小細胞がんが三例、腺がんと腺扁平上皮がんがそれぞれ一例みられた。腫瘍は両肺に同じように見られ、腫瘍の位置は九例が上葉と中葉にあり、七例が下葉であった、と報告している。
(一〇) 長門宏は、日本災害医学会会誌第三三巻第一二号(昭和六〇年)に掲載された「大分県佐伯市南海部郡における出稼ぎ隧道工事者(豊後土工)のけい肺における悪性腫瘍の臨床的研究―原発性肺がんを中心として―」と題する論文において、昭和三五年から昭和五九年一二月までの間に長門記念病院を受診したじん肺(けい肺)患者(じん肺法で要療養となった者)一四四五人に対し、悪性腫瘍の合併について検討した結果を次のとおり報告した。
すなわち、けい肺合併悪性腫瘍は七九人(うち重複がん五人を含む)で5.46パーセントであり、昭和五〇年から昭和五九年の一〇年間のけい肺合併悪性腫瘍は一四二六人中七八人(5.46パーセント)に見られ、そのうち肺がんの合併は二三人(けい肺患者の1.6パーセント、全悪性腫瘍の29.4パーセント)であった。また、同期間中の死亡者一九五人のうち、肺がんの死亡者は一七人(8.7パーセント)であり、これは昭和五八年の人口動態統計の4.3パーセント、佐伯保健所管内の昭和五五、五六年二年間の2.47パーセントに比べて高い頻度であった。肺がん診断時のじん肺のレントゲン写真像は一型二人(8.6パーセント)、二型九人(39.1パーセント)、三型七人(30.4パーセント)、四B型二人(8.6パーセント)、四C型三人(13.6パーセント)で、二、三型が多いが、四型は大陰影がけい肺結節そのものの融合像、結核の融合、肺がんの合併などの鑑別が困難であり、かつ呼吸不全で早い時期に死亡するため肺がんの診断がつかないまま、あるいは肺がんの発がん前に死亡するためとも考えられる。肺がん発生部位は右下葉九例、左上葉六例、右上葉四例、左下葉四例、中葉一例で、下葉にやや多い傾向が見られ、区域別ではS6に八例(33.3パーセント)と多かった。肺がんの組織型は二三人中、扁平上皮がん一二人、小細胞がん五人、大細胞がん四人、腺がん一人、腺扁平上皮がん一人であり外因性因子によるとされる扁平上皮がん、小細胞がん、大細胞がんが多く、内因性因子によるとされる腺がんは極めて少なかったが、その原因として喫煙の影響を否定できないが、決して遊離けい酸などの粉じんの影響を否定できるものではない、と報告している。
(一一) 千代谷慶三を主任研究者とし、その他に一二人の共同研究者(いずれも労災病院の医師)で構成された「じん肺と肺がんの関連に関するプロジェクト研究班」(以下、「プロジェクト研究班」という。)は、専門家会議報告書が石綿を除くじん肺起因粉じんによって惹き起こされるじん肺症例にも高い率で肺がんが発生する危険を伴っている可能性を指摘していることを踏まえて、より広く医療機関における医学情報を蒐集してじん肺と肺がんとの関連を明らかにすることを意図し、昭和五四年一月から同五八年一二月までの五年間に全国各地の一一の労災病院において労災保険によって療養していた男子じん肺患者三三三五例を登録し、コホート調査の手法に従ったプロスペクティブ疫学追跡調査を実施し、その結果を日本災害医学会会誌第三五巻八号(昭和六二年発行)に掲載された「じん肺と肺がんの関連に関する研究―労災病院プロジェクト研究結果報告―」と題する論文において発表した。
これによれば、対象症例三三三五例のうち六三六例が調査期間中に死亡したが、そのうち肺がんによる死亡が八七例(13.7パーセント)あった。右肺がん死亡例は、選択の正確を期するため、細胞診、生検もしくは剖検によって組織型を確認できた症例に限られており、その他の臨床診断のみによるものは除外された。
右肺がん死亡例のうち、①療養開始の時点ですでに肺がん合併が診断されていたもの、②療養開始時には肺がん合併が診断されていなかったが、その後一年以内に肺がんにより死亡に至ったもの、③転移性肺がんによる死亡症例、以上の①ないし③に該当する症例を除外し、療養継続中に新たに原発性肺がんを合併して死亡したと判断される症例は七四例あり、その数は、わが国の一般男子人口における肺がん死亡率から計算する死亡期待数に比較して4.1(標準化死亡比)倍の高値を示しており、じん肺患者の高い肺がん死亡率は一定の地域性を越えてわが国に普遍的に観察されることが明らかになった。なお、注目すべきことは、対象症例三三三五例のうち、一九四一例(58.2パーセント)がけい肺、一二七八例(38.3パーセント)が炭けい肺で、この対象集団はほぼけい酸粉じんに起因するじん肺症例三二一九例(96.5パーセント)によって代表されていることであり、けい酸粉じん暴露群を取り出して検討すると、その標準化死亡比は4.1倍を示した。これに対し、胃がん及び悪性新生物(胃がん、肺がんを除く。)死亡の標準化死亡比は、それぞれ1.1及び1.1で、ほぼ一般男子人口の死亡率と同じ水準を示し、調査対象が悪性腫瘍に関して特定の偏りをもつ集団でないことを示した。
また、肺がん発生の危険を論ずる場合に、対象集団が持つ喫煙習慣がもたらした影響を検討しなければならないとしたうえで、対象集団の喫煙習慣の特徴がもたらす影響を避けて喫煙習慣別に標準化死亡比を比較するため、対象集団を非喫煙群及び現在喫煙群に分けてそれぞれの標準化死亡比を計算すると、それぞれ4.2及び5.2を示した。すなわち、対象集団の持つ喫煙習慣は肺がん発生の危険(標準化死亡比)を算術的に高める傾向がみられたが、調査集団の高い肺がん死亡率は、主として喫煙習慣がもたらした結果と考えるよりは、むしろじん肺が本質的に持つ超過危険に由来する現象であると理解された。合併肺がん八七例の病理組織型は、類表皮がんが五〇例(57.5パーセント)で最も多く、小細胞がんが一九例(21.8パーセント)、腺がんが一〇例(11.5パーセント)、大細胞がんが八例(9.2パーセント)であり、一般男子人口における肺がんの組織型に比較してわずかに類表皮がんが優勢の傾向を示したが、顕著な差異ではなかった。また、けい酸粉じんそのものの発がん性を否定する見解を支持する結果が得られた。としている。
(一二) じん肺等の職業病臨床を専門とする山本真医師は、肺領域におけるがんのうち、結核性空洞壁などの大きな瘢痕から発生する瘢痕がんの発生機序について、瘢痕は既存の組織とは異なる死んだ組織であるが、そのようなものが肺内に存在した場合、その周囲に治癒機転として瘢痕を覆うような上皮の増殖が起こり、その際異型細胞が出現するなど正常の細胞からの逸脱が生じてがんが発生する。これは、瘢痕それ自体からがんが発生するということではなく、瘢痕が存在することにより上皮の増殖が起こり、それががん発生の原因となるということであると説明し、そのようにして発生した瘢痕がんがいかなる組織型を示すかは瘢痕部の上皮の種類によるものであり、扁平上皮が多ければ扁平上皮がんが発生し、円柱上皮が多ければ腺がんが発生しやすいという関係があるとし、大分医科大学の中山巌教授も瘢痕部において発生したがんの組織型について同様の意見を述べている。
2 労災補償上の取扱いについて
<証拠>によれば、次の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。
労働省労働基準局長は、専門家会議から、じん肺と合併肺がんとの因果関係の立証については、病因論的には今後の解明にまたねばならない多くの医学的課題を残しているが、わが国ではじん肺症に肺がんの合併する頻度が一般人口における場合よりも高いことは明らかであり、進展したじん肺症の病態のもとでは肺がんの早期診断が困難となること、治療の適応が狭められること及び予後に悪影響を及ぼすこと等の医療実践上の不利益が指摘されるので、じん肺合併肺がんの業務上外の認定に当たってはこれらじん肺患者の病態と予後にかかわる実態を充分考慮して補償行政上すみやかに何らかの実効ある保護施策がとられることが望ましいとの提言を含む報告書が提出されたので、これに基づき、昭和五三年一一月二日基発第六〇八号「じん肺症患者に発生した肺がんの補償上の取扱いについて」と題する通達(以下、「局長通達」という。)を発した。
局長通達により、(1)じん肺法によるじん肺管理区分が管理四と決定された者であって、現に療養中の者に発生した原発性の肺がん、及び(2)現に決定を受けているじん肺管理区分が管理四でない場合またはじん肺管理区分の決定が行われていない場合において、当該労働者が死亡しまたは重篤な疾病に罹っている等のためじん肺法一五条一項の規定に基づく随時申請を行うことが不可能または困難であると認められるときは、地方じん肺診査医に対しじん肺の進展度及び病態に関する総合的な判断をもとめ、その結果に基づきじん肺管理区分が管理四相当と認められるものについては、これに合併した原発性の肺がんについては、労基規則三五条別表第一の二第九号に該当する業務上の疾病として取り扱うこととされるようになった。
3 亡政男の肺がんについて
亡政男の肺がんの組織型、原発部位、発生状況、じん肺病変については前記のとおりであり、<証拠>によれば、次の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。
(一) 大分医科大学医学部付属病院において亡政男を担当した後藤育郎医師は、亡政男の死亡原因とじん肺との因果関係について、じん肺と肺がんとの関係は不明だが、既往に陳旧性肺結核が存在しており、この肺結核はじん肺に合併したと考えられ、さらに病理学的にも陳旧性肺結核の既存の肺病変に肺がんは隣接しており、死亡原因である血管の破裂の原因となりえた可能性は否定できない、と診断している。
(二) 同じく大分医科大学医学部付属病院の田代隆良医師は本件の審査請求の審理段階において大分労働者災害補償保険審査官に対し、亡政男のじん肺と肺がんとの因果関係について、一般にじん肺合併肺がんはじん肺に伴う慢性炎症や線維化による上皮の異型増殖から発生するであろうといわれており、亡政男の肺がんもけい肺に合併した結核性空洞壁から発生しており、因果関係が示唆される、との意見を述べている。
4 以上の事実関係及び医学的研究報告ないし医学的見解を前提として、亡政男のじん肺と肺がんとの間に相当因果関係が認められるか否かを検討する。
(一) じん肺とこれに合併した肺がんとの間の一般的な病因論的因果性の存否に関して前記専門家会議報告書は当時の病理学的・疫学的研究報告では病因論的に今後の解明にまたねばならぬ多くの医学的課題を残しているとして両者の因果関係は確証されないとし、その後の多くの医学的研究はさまざまな仮説を樹て、両者の関連性について解明を試みているがいまだに定説を得られず、いずれも両者の間に病理学的にも疫学的にも因果関係を確証することができない状態にある。それは、がん発生のメカニズムが現代医学においても完全には解明されていないからであり、また、専門家会議報告書その他の医学的研究が指摘するとおり、病理学的研究及び疫学的研究ともに現在得られている情報が量的にも質的にも限られていて、医学という自然科学の性格上確定的な結論を出すには足りないという理由によるものと考えられるのであって、両者の病因論的因果性を積極的に否定する研究報告は存しない。
ところで、本件においては、亡政男の肺がんが労基規則三五条別表第一の二第九号の業務上の疾病に該当するか否かという法的判断が求められているのであり、前記のとおり、じん肺(これに合併する肺結核)は業務上の疾病とされていることから右の判断は結局じん肺と肺がんとの間に相当因果関係が認められるか否かにかかっている。そして、訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その立証の程度は通常人が疑いを差しはさまない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りる(最高裁昭和五〇年一〇月二四日判決民集二九巻九号一四一七頁参照)と解すべきであるから、本件におけるじん肺は肺がんとの因果関係の立証においても、病因論的因果性の存在が証明されることは必ずしも必要ではないというべきである。
(二) そこで、右の見地に立って本件におけるじん肺と肺がんとの因果関係を検討する。
(1) じん肺と肺がんの相関関係について
イ 前記の医学的研究は、その内容自体からいずれもじん肺の専門家の手によるものと認められるが、中でも専門家会議報告書は、じん肺と肺がんの関連に関する多数の国内外の文献を概括的に検討するとともに、最近の医学的知見を加えて両者の因果関係に関する意見を取りまとめたものであって、専門家会議の設置目的や委員の構成をも考慮すれば、右の点についての肯定的あるいは否定的な見解を客観的立場から集約した文献であると認められ、そこに示された検討結果は医学的水準も高く、その内容も十分に信頼性の高いものであると考えられる。
また、前記の医学的研究の中でも、プロジェクト研究班の報告は、調査対象が全国の労災病院から集められて地理的な偏りがないうえ対象数も多く、また、肺がん死亡症例の登録にあたり、調査対象として一般に肺がん症例が集中しやすい医療機関からの資料を用いていることを考慮し、厳格な基準を設けて肺がん死亡症例から不確かな症例を除外し、療養継続中に新たに原発性の肺がんを合併して死亡した症例を選別しており、肺がんの診断方法にも正確を期するなど、剖検統計の持つ偏りを是正するための様々な配慮をしたうえで研究が進められている。
したがって、プロジェクト研究班の報告において示された調査結果は、他の医学的研究のそれに比し、疫学情報としての信頼性が比較的高いと評価することができる。
ロ ところで、前記の各医学的研究は、じん肺に肺がんの合併する頻度について必ずしも一致した結果を報告していないが、右判示のとおり、疫学情報としての信頼性という観点からみて、本件においては、専門家会議報告書及びプロジェクト研究班の報告により、肺がん合併頻度を検討するのが相当である。
そして、専門家会議報告書においては、最も信頼できるじん肺剖検統計の資料と考えられる日本剖検輯報及び岩見沢労災病院の各調査成績と厚生省死因別統計とを比較検討したところ、じん肺剖検例の全死亡に対する肺がんの割合は全国じん肺剖検例及び岩見沢労災病院剖検例ともに、厚生省人口動態統計のそれの約六倍という高率を示し、岩見沢労災病院剖検例について、当初から肺がんに罹患していた疑いのある症例を除いたうえ臨床診断だけで確実に肺がんと診断できたと思われる症例のみで肺がん合併率を計算しても全日本死亡例のそれの三倍近い高率を示したとされ、また、プロジェクト研究班の報告においても、じん肺(けい肺)患者の肺がん死亡率はわが国の一般男子人口の肺がん死亡率の4.1倍という高値を示したとされているのであるから、じん肺患者には一般人に比べて肺がんの発生する頻度が確実に高いと推認され、したがって、じん肺と肺がんとの間には密接な相関関係があるということができる。その他の医学的研究もじん肺と肺がんとの間に密接な医学的関連性の存在を指摘している。
そして、じん肺患者に肺がんが多発する病理学的な説明として、仮説の域を出るものではないが、菊池浩吉及び奥田正治はじん肺症一般の気道上皮の変化、細気管支粘膜上皮、肺胞上皮の増殖性病変が示唆的であり、吸入物質の沈着の場としての瘢痕の存在を考慮する必要があるとし、佐野辰雄は発がんにおける慢性炎症の役割を重視し、じん肺による肺の線維化と気管支炎による炎症の継続ががんのできやすい状況を作るとし、海老原勇は、じん肺にみられる病理組織学的変化そのものが発がんの好適な母地となっているとし、末梢型肺がんの原発部位は塊状巣の好発部位と一致し、瘢痕がんを含めて塊状巣と確実に関連する肺がんの例を報告し、藤沢泰憲はじん肺ではがんの発生母地となるような上皮の増殖性変化が強いられているとし、第六回国際じん肺会議においても、けい酸粉じん暴露によって生じた肺内の組織的変化が肺がんの発生母地となるとの仮説について否定的な見解は提出されなかった。これらの仮説は、粉じん暴露による肺内の組織的変化が肺がん発生に何らかの役割を果たしている点ではおおむね一致していると思われる。
(2) 瘢痕と肺がんとの関係について
亡政男の両肺にはけい素の沈着並びに小結節が多数見られ、右肺には間質性肺炎または線維症の症状、右気管支粘膜の扁平上皮化生等のじん肺病変、右肺下葉には結核性空洞が見られるところ、亡政男の肺がんはじん肺に合併する肺結核性空洞瘢痕より発生したものであるが、前記のとおり、一般にこのような瘢痕がんの発生機序については、瘢痕が肺内に存在した場合その周囲に治癒機転として瘢痕を覆うような上皮の増殖が起こり、それががん発生の原因となると説明することができ、そのようにして発生した瘢痕がんがいかなる組織型を示すかは瘢痕部を覆う上皮の種類によるのであり、扁平上皮が多ければ扁平上皮がんが発生し、円柱上皮が多ければ腺がんが発生しやすいという関係があるとの医学的見解が存在し、専門家会議報告書においても、じん肺症における上皮の増殖性変化が発がんの母地となる可能性を指摘する報告が取り上げられ、その他の医学的研究においてもこれを支持する報告が見られるのに対し、右の見解を積極的に否定する報告は証拠上認められない。
右の医学的見解を前提とすれば、亡政男の肺がんの組織型が腺扁平上皮がんである点は、結核性空洞瘢痕を扁平上皮と円柱上皮とが混在して覆ってきたため、扁平上皮がんと腺がんが混在して発生したものである、と病理学的に発生機序が合理的に説明可能である。
また、前記の大分医科大学付属病院の二人の医師の診断によれば、亡政男の肺がんが発生した結核性空洞瘢痕は、じん肺(珪肺)に合併した陳旧性肺結核の既存の病変であると認めることができる。そして、じん肺とこれに合併する肺結核との間には一般的に相当因果関係が認められている(労基規則三五条別表第一の二第五号、じん肺法施行規則一条)のであるから、じん肺との間に相当因果関係が認められる結核性空洞瘢痕がなければ肺がんは発生しなかったという意味でじん肺が肺がんを発生させた一つの要因となっていることが認められる。
(3) 労災補償行政上の取扱いについて
専門家会議報告書に基づき労働省労働基準局長の発した前記通達によると、要するに、じん肺法によるじん肺管理区分が管理四と決定され、または管理四相当と認められた者であって現に療養中の者に発生した原発性の肺がんは、労基規則別表第一の二第九号の業務上の疾病として取り扱われるが、じん肺管理区分が管理四以外の者に発生した肺がんは、原則として業務上の疾病とされず、労災補償の対象にはならないとされている。
ところで、前記のとおり、専門家会議はじん肺と肺がんとの間の病因論的因果性について確定的な結論が得られなかったとしながら、一方においてじん肺合併肺がん患者に対する補償行政上の保護措置の必要性を提言している。このことは、専門家会議も、じん肺と肺がんとの間に一定の関連性が存することを前提とし、両者の間に因果関係の肯定される場合のあることを考慮したものと思われる。局長通達は、これを踏まえ、業務上の災害(疾病)の被害者となった労働者に対し、迅速・公正な保護を与えるという労災保険法の目的に鑑み、高度のじん肺患者の被るべき肺がん治療上の不利益や悪影響を考慮して、管理四または管理四相当の者に発生した原発性の肺がんについては、一般的に業務と肺がんとの間の相当因果関係の存在を推定するという労災行政上の運用基準を定めたものと理解することができる。
しかし、専門家会議報告書は補償行政上の保護の必要性が認められるものを管理四まは管理四相当の者に限定していないし、肺がん合併頻度は、管理四よりも管理二ないし管理三の者の方が高いとの報告も見られることは前記のとおりである。また病理学的にじん肺と肺がんの間の因果関係を確証することができない点については管理四とそれ以外とで差異はないこと、前記のとおり両者の間にはかなり強い相関関係があること、じん肺の管理区分は客観的な基準を機械的に適用して決定されるわけではなく、その決定には診断者の判断に委ねられている部分があり、亡政男のじん肺の程度について医師の見解が分かれたように管理四と管理三の限界は相対的であり、労災補償における行政の公平な取扱の要請からするとじん肺と肺がんとの因果関係の認定に当たっては、管理四とそれ以外のものとを峻別して後者についてのみ一律に厳格な立証を要求するのは必ずしも相当とは思われない。前記のとおり、亡政男のじん肺の程度は管理三と管理四の限界的な場合とみられるのであり、じん肺合併肺結核のため肺がんの診断が遅れているのであるから、亡政男の肺がんについても業務起因性を推定する取扱いをする方が局長通達の目的、趣旨に合致するものと思われる。
(4) 以上に判示したところの事実関係、とくに一般的にじん肺とこれに合併する肺がんの間には密接な相関関係があること、じん肺による肺内の病理組織学的変化が肺がん発生に寄与しているとの意見が多く報告されているところ、亡政男はじん肺に罹患し、その肺内にはじん肺性病変が存在し、亡政男の肺がんはこれに合併した結核の瘢痕から生じたものであることからじん肺症ががん発生の一つの要因となっていることは疑いないこと、亡政男のじん肺管理区分が管理四であるとの診断もあり、一般的に業務と肺がんとの相当因果関係が推定されるべき局長通達の適用について限界的な事例であったと見うること、亡政男の診療に当たった大分医科大学付属病院の医師がじん肺と肺がんとの因果関係を示唆するとの意見を出していること、瘢痕がんの発生機序及びその組織型について医学的に合理的な説明が可能であることなどの諸事実に徴すれば、亡政男の肺がんがじん肺と関連性を有しないとする特段の事情が認められない限り、その肺がんは同人の罹患していたじん肺に起因して発生した、すなわち両者の間に相当因果関係を肯定するのが相当である。
したがって、亡政男の肺がんは労基規則三五条別表第一の二第九号に規定する業務上の疾病であると認めることができる。
(5) 被告は、亡政男の喫煙歴からみて、じん肺より喫煙の方が肺がんの重要因子になっている疑いが濃厚であると主張するので、これが右の特段の事情と認められるか否かを判断する。
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
イ 多くの疫学的研究及び実験的研究により、喫煙、とくに紙巻きたばこと肺がんとの病因論的因果関係はほぼ確立されてきている。肺がんにおいては紙巻きたばこの喫煙量と死亡リスクの間に量―反応関係がみられるほか、喫煙開始年齢が低いほど肺がん死亡リスクが高い。腺がんと喫煙との間には、ほとんど関係は認められず、多量喫煙者で軽度の腺がんリスクの上昇を認める研究や、弱い量―反応関係を認める研究が報告されており、腺がんは他の組織型の肺がんに比して喫煙との関連性が弱いとされている。
ロ 亡政男は、大正一二年九月二五日生の男子で、二一歳ころから四八歳ころまでの約二七年間に一日二〇本程度の喫煙をしていた。その後は喫煙本数が減ったものの、少なくとも昭和五五年ころまでは喫煙を継続していた。
<証拠>中右認定に反する部分は<証拠>に照らし採用することはできず、他に認定に反する証拠はない。
以上のとおり、喫煙と肺がんとの間には一般的に因果関係が肯定されており、亡政男は右認定の喫煙歴があるのであるから、被告主張のとおり、亡政男についてもその喫煙と肺がんの因果関係が存在する可能性を否定し去ることはできない。
しかしながら、前記のプロジェクト研究班の被告(<証拠>)によれば、じん肺患者の中でも喫煙者群と非喫煙者群との間で肺がん死亡率に差があるものの、喫煙習慣は算術的に肺がん発生の危険を高める程度に止まり、非喫煙者についても肺がん死亡率が高いことからじん肺患者の高い肺がん死亡率は主として喫煙習慣がもたらした結果と考えるよりは、むしろじん肺が本質的に持つ超過危険に由来する現象であると理解されたと報告されていること、前記のとおり、亡政男の肺がんの組織型は腺がんと扁平上皮がんが混在する腺扁平上皮がんであるが、腺がんと喫煙とはほとんど関係ないか、関連性が低いと報告されていることを考慮すれば、本件において、とくに喫煙の影響がじん肺の持つ危険を超過し、じん肺と肺がんの関連性を否定する程に強かったとは認められず、亡政男に喫煙習慣があったからといって、じん肺と肺がんの因果性についての前記判断を覆すに足りる特段の事情とは認められない。
そして、本件においては、他に、右の特段の事情を認めるに足りる証拠はない。
五以上のとおりであるから、亡政男の死亡が業務上の疾病によるものではないとしてなされた被告の本件不支給処分はいずれも違法であって取消を免れず、原告の本訴請求は理由があるのでこれを認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官林醇 裁判官山口毅彦 裁判官榎戸道也)